ようし、ぼくはがんばるぞ
こんばんは。月村です。
この日のことは、今でも忘れられません。
私が大学1年生の夏の出来事です。
その日は、サッカー部の合宿の初日でした。
大学に集まり、先輩たちの車に乗せてもらって、
戸狩温泉スキー場に向かいます。
スキー好きの先輩の伝手で、
夏合宿が企画されたとかで、
そんな長野県の山間に向かっていました。
高速を飛ばして、山道をくねくねと走り、
それなりに時間もかかり、
暗くなってきた頃。
ラジオのニュースだったか、
サービスエリアのテレビだったかで、
「飛行機が行方不明」みたいなニュースが
耳に入って来たのです。
少し気になっていて、
ようやく旅館に着いてすぐに、
テレビのニュースを見て、はじめて、
日航機が不自然なコースを飛行して、
群馬県あたりで消息を絶っていることを知りました。
それが、36年前の今日のことです。
今の時間21時は、ちょうど、
「山あいに火の手が上がっているのが見える」とか、
まだまだ情報があいまいで、
飛行機がどうなったか分からずやきもきしながら、
テレビ番組に釘付けになっている頃です。
まさか、それが、
単独の航空機事故としては世界最多、
死者520名を出した墜落事故になっているなんて、
想像もしませんでした。
お盆休みで満員の乗客を乗せた飛行機は、
垂直尾翼の破損という想定外の、致命的な故障に見舞われ、
操縦不能のまま、32分間飛行を続け、
死者520名ですが、乗客乗員は合せて524名。
つまり、生存者が4名いたのです。
凄惨な事故現場の写真を見るに、
生存者がいたことは、
奇跡としか言いようがありませんでした。
吉岡忍著「墜落の夏」(新潮社)に掲載された、
生存者の落合由美さんの証言の中に、
私が、どうしても忘れられない、
エピソードがあります。
墜落して重傷を負った落合さんの耳に、
ある男の子の声が聞こえてきたというのです。
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
突然、男の子の声がしました。
「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、
男の子は言いました。
学校へあがったかどうかの男の子の声で、
それははっきり聞こえました。
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
生存者4名は、すべて女性です。
この男の子は、無念なことに、
520名の一人になったのでしょう。
だからこそ、この子の言葉が胸を打ちます。
瀕死の重傷を負っていたはずなのに。
墜落のショックがどれほどだったか、
生々しい落合さんの証言を見るに、
とてもそんな言葉を出せるような、
そんな生易しい状況ではなかったはずなのに。
なんて前向きな言葉を、
この少年は口にしたのだろうと、
初めて読んだ時、涙が止まりませんでした。
墜落直後は、荒い息遣いがたくさん聞こえたと
落合さんは証言しています。
この子以外にも、生存者がいたのでしょう。
最悪の航空機事故でありながら、
これほどの命が助かる可能性を残したのです。
機長や副操縦士たちのがんばりが、
どれほどすごかったのか、
結果が物語っていると思います。
飛行中に操縦不能に陥るという、
考えうる限りで最悪の事態に直面してなお、
最後まであきらめなかったからこそ、
命をかけて、操縦技術の粋を尽くして、
生きようともがいたからこそ、
4名の尊い命が救われたのです。
その機長さんの娘さんは、
お父さんの遺志を継ぐように、
同じ航空会社に就職してCAになったそうです。
お父さんが機長だったということで、
言われない誹謗中傷もあったようですが、
それでも、お父さんと同じ会社に入り、
空の仕事に就いたそうです。
機長さんが命を懸けた、その想いが、
娘さんに伝わり、
受け継がれたのだと思いました。
胸が打たれました。
36年目の夏が、
今年も静かに過ぎていきます。
何事もないこと。
それは、本当に幸せなことです。
いつも守って下さる神様に、
今日も感謝の祈りを捧げます。